栗山千明 リターンズ。

天才、とは天が人に才能を与えたことをいう。

才能はそれ自体が他の価値、すなわち”真善美”よりすぐれたもので
あるわけではなく、



たとえば、”背が高い”、”色が白い、黒い、黄色い”、”声が高い”
といった資質との、優劣があるわけではない。

そういう意味では”美”もそうだ。


そこで、”栗山千明”。



”天才”としての”美”を与えられしひとである。



例えば、イチロー。与えられた天才を、それを誇るでもなく淡々と受け入れ、

そしてそれを磨き見せる。


りきみや、てらいは、感じられない。

むしろ、”脱力”を志向している感がある。



僕が、栗山さんを観るとき、感じるのはそれと類似した”さりげなさ”だ。


自身は、美を、纏っている。それは厳粛にして、単純なる事実として。


だが、彼女の魂に、”気負い”はない。


あるがままに、生きている。あるがままに、”美”を生きている。



それが伝わる。美をもつものとして、そこにやはりてらいはない。

そのまま、与えて、くれる。


”美”を、人は、欲する。


真、とともに。 善、とともに。


よりすべてのひとが、自覚的に求めるものといってもよいのかもしれぬ。


だが、その3者のあいだにもやはり、優劣はない。

天才と背の高さの、優劣がないのと同じく。



みずからに与えられた”美”は、自らの故に与えられたものではなく、偶然、である。


だからそのことで、”人より偉い”と思うことはない。


人より、偉くない、ということもない。



事実として、淡々と、それを乞い求める人の魂のまえに”提出する”。


もったいぶらず、素直に、そしてプライドをもって。



栗山さんの、気負いのない素直な語りに接したひとは、その直截で事前にその”美”から
うけていた印象との差にとまどうことがあるようだ。


それが、彼女の、素晴らしいところ。


みずからが”偶々”天より与えられた資質としての”美”。



それを磨き、最高の状態で保存し、進化させ、人々に与えてくださる。



その、姿勢が、自身の内面をも、気負わず伝えるのであろう。



これからも頑張っていただきたいと、思っている。